シロイルカバブルリング

映画のレビュー

『アーティスト』

川崎シネチッタで観てきた。

アカデミー賞
モノクロ・無声のサイレント映画(音楽はありました)

さすがフランスの映画。もうおしゃれでおしゃれでセンスがいい!

無声といえどもたま~に字幕があるからポイントポイントで役者が何を言ってるかが分かる。
でも最小限。ほとんど口パクなので台詞は想像を膨らませるしかない。
そんなんで映画が成り立つのかって思いそうだけど、ちゃんと成り立っている。
むしろ映画より映画な気がした。

声がないことで役者はオーバーアクション。
主演のジャン・デュジャルダン、表情の演技が上手い。昔の無声映画って、こうゆうの見せられるとすごい興味がわく。

銘役者は人間のみならず、犬がすごい。そうとうな天才犬っぽい。パルムドッグ賞、授賞するだけあるw(←この辺がまたおしゃれね)
子役ブームの次は動物キャストブームくるか。

ハイテクCG駆使した映画もよいけどこうゆうのに"本物感"感じるのは私が昭和世代だからでしょう;

静かでシンプルなストーリーだけど役者の口パクと表情の演技に目を離さず見ていないと内容についていけなくなる。けっこう忙しくて見ごたえある。
無声なのに忙しい映画と感じるのがよさで、いつもどこの感覚使って映画見てるんだろう?っていうのを認識させるというか、、それが狙いみたいでいいなぁって。

でも古き良きものに執着しすぎるとこの主人公のように時代に取り残されてしまうから気を付けないと;
こうゆう古いものに対しての見せ方ってけっこう難しいと思う。この映画はそこですごく成功してるなぁ。
アカデミー賞、納得。

『ペコロスの母に会いに行く』

ペコロスの母に会いに行く』の試写会に行って来ました。

バツイチ中年越え男性が認知症の母の介護をする話でおもしろ可笑しい、でも涙なしでは見れない、すごくいい作品でした。

主人公は岩松了さん。認知症の母役は赤木春恵さん。
あと、同じ母の介護問題を抱える主人公の同志として竹中直人さん。温水洋一さんは主人公の友人役。
この男性キャストが笑えて、、(失礼ですが)みんなハゲてる。笑
ペコロス”とはちっちゃい玉ねぎで、要するに見た目が、、そういうことです。笑

(ちょいネタばれ)


認知症の母は息子さえ忘れつつありますが、ハゲ頭を見せると「あ、息子!」と思い出しますw

認知症の介護って大変ってイメージで、もちろん大変なんですけど、苦しいばかりの大変ではなくて、こうゆう家族の絆が見え隠れするような面白いエピソードがけっこういっぱい生まれると思う。

私的な話ですが、今年、認知症の祖母を亡くした。
離れて暮らしていたのでたまに帰った時しか顔を見せられなくてお葬式では不甲斐なさで複雑な気持ちになった。
祖母は98歳まで生きて、認知症を患っては長かったけど身体は健康そのもの。老衰で亡くなりました。
一度施設に入ったけど、伯母がすぐに連れ戻し自宅で介護をしていた。

伯母のひ孫が12人いて(子沢山なんです)、帰省して会いに行くといつも車椅子に乗った祖母は1歳~12歳のひ孫12人に囲まれ、やんややんやと騒がしく遊んであげているのか、遊ばれているのか、という状態で楽しそうに過ごしていました。(当然、多すぎるひ孫の名前なんて一人一人覚えられない様で、本人はなんか近所の子がいっぱいいる~くらいに思っていたようでしたが)

孫、ひ孫、合わせて19人。子供も合わせると23人。どこのアフリカの家庭や。23分の1の私はたまにしか顔を見せないので祖母に「帰って来たよ~」っていうと「誰ですか?」みたいな顔をよくされました。笑
でも、祖母と私、二人だけの思い出話をするとすぐに思い出してくれていました。この辺がすごく嬉しかったし、不思議だと思っていたんです。明治生れの祖母、どれだけの記憶をその痩せ細った身体に秘めているのか。海、でした。

不可解なこともよく言っていました。
既に亡くなっている身内と嬉しそうに会話をしてることもよくありました。見えている、としか思えないような話もしていました。それを家族でうんうん、と聞いていました。

認知症になる前は、厳格で口うるさく、怖いおばあちゃん、だった祖母。
認知症になってから、穏やかになり、食いしん坊になり、肌ツヤがよくなり、眉間のシワがとれ、いつも笑っているようになりました。年頃になっては近寄りがたかったけど、これが祖母の本質だったのかな、なんて感じたりしました。

ペコロスの母に会いに行く』は、そうゆう身内が認知症になったから気づかせてくれたことを、描いている映画と思いました。

私の母は認知症には絶対なりたくない!と言っていますが、別になってもいいよって子供の立場で(楽観的過ぎるかもしれませんが)思っています。
でも、認知症は真面目で神経質な人がなりやすいようなので、、

母には言えませんが、認知症になる素質がないと思います。。

『Jin』

トルコ出身のレハ・エルデム監督。

http://tiff.yahoo.co.jp/2013/jp/lineup/works.php?id=W0003

トルコの社会情勢を反映している作品。
主演女優は素人で、監督が発掘した新人。
これをきっかけに監督のその後の作品にも出演している。
監督はこの映画を撮るにあたって1番苦労したのは、危険区域で実際に撮影を行ったことだったと言っていた。
規制的なものより、精神面でそれが1番辛かったそう。
他の映画の撮影も同時進行で考えていて、でもこの映画は今だから撮らなけらばいけない!と感じてその気持ちを抑えられなかったので強行で撮影した、とのことだった。

、、正直、トルコの“男尊女卑”の感覚が凄くてこれって今の話?って疑った。
後のQ&Aでそれを代弁してくれる質問が出た。
他の映画祭で上映した時も同じ質問が出た、ということだった。
その時の質問は「男尊女卑の感覚がオーバー過ぎるんじゃないか?」というものだったそう。
それに対して監督ではなく、他の観客が質問者に対して「あなたもスカートを履いて現地に行って通りを歩けばオーバーじゃないということが分かるはず」と言ったそう。

映画はあまりにも、、な内容だった。映画の感想は良くも悪くも観た人にゆだねられる。

『ゾウを撫でる』YouTubeのみで配信

佐々部清監督『ゾウを撫でる』全9章、見ました。

ゾウを撫でる、という不思議な題名にまず興味を持つ。
興味を持ったときにスマホがあれば、ちょちょいのちょい!ですぐに調べられる。
そこで群盲象を撫でる、ということわざがキーワードなのだな、と知る、、。

このことわざの意味は、“目が見えない人が象を触り、象とはどうゆうものなのかを語る”ということ。
盲人は目が見えないので象の全貌を知らない。
自分の手が届く範囲でしか知るよしがない。

そのくせ、知ったかのように語る。
でもそれはしょうがなく、知ったことしか言えないからなのです。

誠実である反面、全貌を知らないのにそれについて語る怖さ。
これはまさに現代の知の意識に問いかけるもの。

ここでは象が映画となっています。
便利になる世の中。
知りたい情報はすぐ手に入るけど、頭でっかちになっているのが実情じゃないか。。
第7章が個人的に考えさせられました。

対面で会話している時に携帯触ってLINEされてると、確かにげんなりするね、、。

私も気をつけよう。

『悪人』

『悪人』。良質な映画に出る妻夫木くんの安定感と確かな演技力。
悪人面白いよーって周りにたくさん聞いていて、普段映画にそんなに興味ないっていう人も見たらすごい考えてしまった!って人が多くて。
遅ればせながら昨日見た。

すごー!と思った。周りと同じように私も感動した。ひとつ周りと違ったのはこれは舞台が九州で、方言の言葉づかいやロケ地が身近だったこと。

、、生々しい。

殺人を犯した妻夫木くん演じる祐一の背景とか、光代と逃亡していった先の料理屋が呼子のイカの店とか。

祐一が光代に殺人を犯した告白をする場面で店の人が割り込んで「後でフライにしますからね~」と言う。
これは本当に言われること。
後のフライがお約束で美味しいんですよね。

関東に来たら「九州ってイカを透明のまま食べるんでしょ?」って言われて、それが普通の感覚だったのでほよ?と思ったのを思い出した。
イカは白いってのが関東の定説なんだとその時知った。

生々しい、、

映画は出会い系サイトで知り合った男女の話で、思わず調べたら原作者の吉田修一さんは長崎の人だった。
自分の体験や実感を基にこのストーリーを作られたんだなと思った。

映画はおとぎ話ですが、おとぎ話は空想からは生まれなくて、もしそうだとしたらきっとこんなに胸を打たれることはない。
映画のメッセージは、大切に思う人がいますかっていう、すごくシンプルなものだと思うけど、その重みは半端ない。


、、私は言いたくなった。

イカは、、

透明が一番美味い!!と。


『きっと、うまくいく』

明日早く起きなきゃなのに、途中で止められなくなって号泣しながら最後まで見てしまうタイプの映画に会ってしまいマシタ。。

長い映画。前半、後半に分かれてて見終わったの朝の4時過ぎ。
うっすら明るくなる窓の外の景色がなんか、いつもと違って見えたな。
七人の侍』もそうだったな。。

ふぁーっ!!となったな。
(※いい映画見た後の感想の一言をスキルアップさせる必要あり)

インドの青春映画。
インドでは学生時代に競争社会の意識を叩き込まれるらしい。いい成績をとれない学生はダメ学生。故郷を離れ身内だけでなくたくさんの人の期待を背負ってエンジニアになるための勉強をしに大学に行く。
生まれて1秒後に両親にエンジニアにする!という期待をかけられ、それにそって勉強に明け暮れる人生がスタートする。
学生の自殺者がとても多いらしい。
大学から親元へご子息はいい学生ではありません、なんて連絡が入ろうものなら親や故郷の名を汚した!と責められる。
いい成績を残せない=競争に勝てないというレッテル。
抱える重圧が凄いんだろうな。

(ろくに勉強をしてこなかった自分に煎じて飲む為の爪のあかをください)

いろんなものを背負って幼い頃から1番になることを目指して、それが人生の価値観。
そこからハズれてしまった!と感じたら死を選んでしまうほどなんだな。
そんな背景があるから生まれた映画なんだろう。
この映画を見たことで救われる命があるんじゃないかと思った。それがいっぱいあったらいいなと思った。


辛いことがあった時にきっとうまくいく、というセリフを呪文のように唱える主人公。友達にもそれを勧める。それが邦題ではタイトルに。
原題は「バカに乾杯!」だとか。

『デルス・ウザーラ』

言わずと知れた黒澤巨匠の映画です。

うつ病克服後、高齢で撮った映画で、黒澤監督の達観を知れるのか、という気持ちで改めて見た。
(昔、見たけど私にはこれはまだ早い、と感じて最後まで見なかったやつだから、これ観るのは気合い入りました)。

すごい、壮大なテーマ。
当時、アメリカとかではあまり評価されなかったと聞くけど、それも分かる気がしながら、でも、やっぱりすごいテーマであることは間違いない。
これこそ、あと何十年先になってまた思い出され再評価されるような映画なんじゃないかと思った。
自分なりの解釈だと、人間の進化と退化は隣り合わせで、世の中が便利になるからといって人間そのものの能力がどんどん高まっていっているという訳じゃない、ということをいっていると思う。
医学の進化で長生きできるようになったかもしれない、インターネットの普及で昔より頭が良い子が育つようになったかもしれない。でも、反面、ゲームやパソコンによって視力が落ちている、自然を知らずに育つ子が増えている。
昔は当たり前に持っていた能力を、今ではバーチャルに用意されたものでしか身に付けられない。数字で評価されても、それは完全なものじゃない。
生きていく上で危険を回避するために学んでいたそれと、知るために用意されて、できなかったからといって死ぬ訳じゃないという環境の中で学んだそれとは根本的に違うよな。

映画では、人への思いやりという側面でも語られていたけど、これも確かにそうだな、と思わせた。
SNSによってネットの匿名性は無くなって、間違ったこと、悪いことをすれば批判を受けるよ、ちゃんとしてなきゃいけないんだよ、ということは浸透していると思う。
協調性は育つかもしれない。
でも一方で、さとり世代といわれる人たちは「枠からはみ出しちゃいけない、人と違うことをすれば自分の居場所が無くなる」という漠然とした恐怖を常に抱えているという。
それって本来の協調性じゃない。

機能がどんどん進化していっても、そういった根本的な部分が置いてけぼりになっていくのは、、どうなのかな。

はじめて見た時は「自分にはまだ早い」と思った訳ですが、むしろ、「これって学校の教材にした方がいいんじゃ?」とすら思った。

そして主人公デルス・ウザーラという人物に、黒澤監督が自分自身を投影していたと感じる。